NEXTSCAPE blog

株式会社ネクストスケープの社員による会社公式ブログです。ネスケラボでは、社員が日頃どのようなことに興味をもっているのか、仕事を通してどのような面白いことに取り組んでいるのかなど、会社や技術に関する情報をマイペースに紹介しています。

MENU

「成長」は目的?

 年の瀬の慌ただしさに包まれるこの季節、クリスマスムードを楽しむことなく就活生は授業の合間を縫ってエントリーシートと格闘し、バイトやサークルと折り合いをつけながらなれないリクルートスーツを身に纏い会社説明会、採用面接に明け暮れる。

 

 ありがたいことに今年もたくさんの応募を頂いており、同じ就活生の娘を抱える親でもある私は、例年にも増して真剣に1枚1枚のエントリーシートや初期選考結果に目を通している。どんな人物なのかを想像し、入社後の活躍する姿を思い描きながら面接時の質問や想定される回答、更なる問いをメモとして作成し、対等な対話になるよう面接に臨んでいる。仮に入社の御縁がなかったとしても、将来取引先としてその人に出会った際に、もし私の面接の印象が悪かったら、ビジネスの障害になってしまうことだってあるのだから。

 

 ここ数年の傾向だった「成長」というキーワードは、今年は特に際立っているように思う。確かにキャリア採用とは違い、社会人となったばかりの新卒社員が期待される能力発揮のためには学びが必要であり、能力発揮ができるようになることは「成長の証」なのだろう。『成長したいと考えるので成長支援の仕組みのある会社が希望』『成長して〇〇をやりたいので若手の裁量権が大きい会社が希望』こんな表現がエントリーシートに頻出する。

 

 子供の頃は久し振りに会った親戚に「大きくなったね」と言われたり、数年前の日記を読んで「あの頃はこんなことで悩んでたのか」と振り返ったりする時、人は成長は実感する。親は子の誕生日に幼かった我が子を思い出し成長を実感する。つまり成長の実感には他者の視点(或いはメタ認知)が必要なのだが、それが欲望の形式「成長したい」という表現になっているのが面白い。これは「成長欲求」という用語が独り歩きして人材業界で流通した結果、採用側と求職側の共通用語化した用法なのではないかと推察している。採用側が期待している「結果として観察される成長」を、求職側が既に自覚的に求めているので心配ご無用です、といった具合なのだろう。

 

 実際に面接で尋ねると、成長とは個人の能力伸張・獲得と能力発揮を意味しており、能力伸張・獲得への支援体制と能力発揮の機会提供に落ち着く。なるほど確かにこの機序は成長のある面を表している。成長する前の視点ならばこう書く以外無いこともわかる。ただ、成長という言葉にはもう少し広い「変化」という面がある。

 

 佐治晴夫と養老孟司の対談書『「わかる」ことは「かわる」こと』では、学びの本質は学習者のアタマの中が「かわる」ことであり、それが「わかる」ということだと指摘する。この変化の視点が就活生のエントリーシートの成長には無いことを、採用側はよく理解しておかなければならない。些細なことのようだが、これは期待とのギャップを大きく広げる可能性を孕んでいる。採用側の多くは、組織に馴染むことも成長だと期待しているし、組織と響き合うことも成長だと期待しているからだ。

 

 しかし、そろそろ採用側も組織に馴染むことや響き合うことに対する視点も「かえる」必要があるのかもしれない。馴染むことや響き合うことが期待されるのは協力を重視するからであり、もし協力が不要な状態、例えば仕事の殆どが一人で完結するようになれば、いわゆる協調性は重視されなくなる。生成AIの普及はユヴァル・ノア・ハラリが言うように個人のホモ・デウス化(人神化)を進める象徴的な出来事であり、創造主としての「生成(generative)=生み出す力」を外付けできるようになったとも考えられる。個人+AIで多くの仕事が完結する状態で、馴染むこと響き合うことを求めない組織というのはどんな形態を取るのだろうか?

 

 友人の招待を受けてN響コンサートに行き、ピアノとオーケストラの交響を楽しんだ。緻密な音型を見事な分業とバランスで果たす息の合った演奏はまことに心地よい。交響曲(Symphony)はsym(共鳴、交響)する音楽であり、主題を様々な楽器群の分業によって奏でるものだが、多くのプレイヤーが参加する音楽にこれとは別に多声楽(Poliphony)がある。独立した複数の主題が対等の立場で絡み合って進行する音楽だ。ひょっとすると、生成AIと共存する職場から聴こえるのは、交響的なものではなく多声楽的な響きになるのではないか?

 

 ここで思い出すのはミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』で解説される「異なる思想を持つ登場人物の事件に満ちた対話」である。つまり、作者による操作ではなく登場人物の独立した考えが対話によって物語を生成するということだ。『カラマーゾフの兄弟』をお読みになった方は多いと思うが、確かにそう捉えると、どの登場人物にもそれぞれの思想があり、別の誰かの思想と同じだと思える人がいない。恐るべしドストエフスキー。恐るべしバフチン。二人共21世紀の生成AI時代の組織を見越していたとは。

 

 さあ、こうなると多声楽状態の組織をどうやって指揮するのか?この知識を未だ持ち合わせていないのだが、強い命令や指示の効果が薄くなり、先行事例の価値が下がり、アンサンブルさえ不要だと考えられる可能性もある。今までの常識とは違うマネジメントの力が必要となりそうだが、希望の光はドストエフスキーの度量に学び直すだけではなく、人類の歌の起源を知ることにもありそうだとわかる。詳細は省くが、集団が歌うのは協力(リズムを合わせる)が目的だが、個の歌唱の起源はポリフォニックだったことが知られている。

 

 成長によって伸張・獲得した能力を発揮したいと願う就活生と対話しながら、生成AIを纏ってホモ・デウス化する社員の能力を活用し、組織としての価値を多声的に響かせるマネジメントを模索する。組織としても社会としても過渡期であることは間違いないが、この響きがお客様に届いて、その物語をお客様に喜んでもらえる様に試行錯誤する、そんな2025年を想像している。